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趣味/雑記

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||みた感想と考察、君はエヴァンゲリオンから降りれたか

こんにちは、szkです。
見てきました。んでもってSNSで感想言うと不特定多数に対するネタバレテロになりかねないのでここでまとめます。

1回目とありますが、2回目があるかはわかりません。

まえがき

この記事はシン・エヴァンゲリオン劇場版:||をメタ的な目線から考察する感想記事となります。
無論ネタバレが多く含みますし、後述する内容の通りこの内容を知ることで人によって作品自体を楽しめなくする可能性があります。
その旨ご了承の上お読みください。

はじめに

正直に言うとシン・エヴァンゲリオン劇場版:||は「ノリと勢いでエンタメ的に見る」のが最も良い楽しみ方だと思います。
考察の幅としては「世界観設定的な考察」と今回この記事で取り扱う「メタ的考察」の2点があげられます。
双方、この作品に対しては「野暮」な”茶々入れ”であることは自覚しております。
”茶々入れ”に耐えられる人は読んでくれると嬉しいです。

エヴァ来歴

さて、まずszkのエヴァ来歴でありますが、自分はスピンオフ関係はコミックス版のみでパチンコやゲーム等は触っていません。
今回、スピンオフである漫画版はあえて考察から外し、TV版、および旧劇場版、新劇場版の3点を中心に取り扱っていきます。

・TVシリーズ(新世紀エヴァンゲリオン)
・旧劇場版(DEATH(TRUE2)/Air/まごころを、君に)
・新劇場版エヴァンゲリオン
・漫画版新世紀エヴァンゲリオン

”初”感

というわけで、いきなり感想から。
素直に言って「よくこの情報量をこの時間にまとめたな、これを書けた庵野監督すげぇ」というのが最初の感想です。
劇場が終わった後思わず拍手したくなるような、そんな出来の作品であったと思います。

この作品には3つ軸が存在すると感じました。それが以下の3つです。

1.「新劇場版エヴァンゲリオン」という作品自体の軸
2.「エヴァンゲリオン」(TV版/旧劇場版含む)という作品を通して伝えたいであろうメッセージの軸
3.庵野監督自身の「ケジメ」としての軸

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」はこれら3つの軸すべてを歪みなく、無駄なく非常に繊細な取り扱いをしながら2時間30分という短い時間にまとめ上げた作品と言えます。
これら3つの軸をすべて感じてもいいし、どれか1つを感じてもいいしもしかすると私の知らない”軸”がまだまだ存在するのかもしれません。
また、この作品の評価はこれらの「軸」の感知具合によって大きく異なります。
1つだけ見ても賛否両論あるでしょう。ただ見える軸が増えれば増えるほど、良い評価を与える人が多くなるのではないでしょうか。

どの軸も作中の要素として限りなく綿密に組み込まれているためどこから書けばいいのか困りますが・・・一つづつ記載していこうかなと思います。

感想を書く上での、共通前提知識

と、勇んだものの今回書きたい内容を理解してもらうために必要な前提知識が多すぎることに気が付きました。
まずは、順を追って話を進めます。

”旧”を見ているかどうかで大きく異なる印象

今回のシン・エヴァンゲリオンですが、旧作品を見ているか否かでその印象が大きく異なったものとなると思われます。
前述の通り、作品を見る上では知らなくても全く問題ありません。
ただ、今回の感想と考察においてはこの知識が前提となるため、まずはここに旧版の前提を記載させてもらいます。

尚、物語として見る場合、新劇場版のみで完結する内容です。物語的なつながりは旧と新では”前提としてはある”ものの、視聴者としてはそれを一切意識する必要なく新劇場版を楽しめる内容になっています。
世界観的な”つながり”をここで書くと何記事あっても足りないので割愛するとして、表現方法や「エヴァンゲリオン」という作品を通して伝えたいメッセージなどは旧新双方で相違ないものとなっていると今回の結末を見て改めて再確認できました。

”旧”のおさらい

まず旧作品であるエヴァンゲリオンの正式名称は「新世紀エヴァンゲリオン」です。
1995年にTVアニメシリーズが26話構成で放映。
その後劇場版1作品目の「DEATH AND REBIRTH~シト新生~」は1997年3月。
上述のREBIRTHの再編集及び追記となる「Air/まごころを君に」が1997年7月といったスケジュールで供給された作品となります。

この3作品は密接に関係しており、人によって大きく解釈は異なりますが共通認識として1話~24話までの流れは共通として存在し25話、26話をどうとらえるかというのが作品的な特徴の一つとなっています。
というのも、新世紀エヴァンゲリオンは25話と26話が複数存在しそれぞれ異なる視点から物語が進んでいきます。

TV版

まず、TV版の1話から24話は主人公である碇シンジが”汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン”に乗り、人類の仇敵である「使徒」と人類存続をかけた戦いに臨んでいくという構図で物語は進んでいきます。
そして、「24話:最後のシ徒」で最後の使徒と戦うわけですが、その殲滅対象となるのは”渚カヲル”。
彼はたった1話でシンジの信頼を得てその話の最後では初号機に握りつぶされて物語から退場するわけです。
その結果「同じ人と同じ形をした相手を殺してしまった」シンジは大きな精神的ダメージを受け、24話ラストは彼の悲鳴で幕を閉じます。

その後の流れは「主人公を中心とした人と仇敵の戦いを描いたアニメ」から大きく変わります。
このあたりは、背景として庵野監督の精神状態の不安定さから生まれたものという事実もありますが、語るとキリがないので事実として肯定しつつも「出来上がった作品」を淡々と述べるのみとさせてください。
「25話:終わる世界」「26話:世界の中心でアイを叫んだけもの」では”人類補完計画”が遂行された前提で話が進んでいきます。
この状態が”視覚的にどういう状態であるか”は後述する旧劇場版Air/まごころを君にを視聴することでわかるようになっています。

この25話以降はシンジ、アスカ、ミサトの3者の心理描写を分析するように語り、26話では”エヴァに乗らない自分の存在価値”をシンジは自問自答を続けます。
これは1995年時点で当たり前だった「役割を持った主人公」に対するアンチテーゼという解釈が一般的で、「ロボットアニメの主人公が仮にロボットを乗る事を破棄した場合彼に存在価値はあるのか」という真理実験をアニメを通して行うという内容と解釈されることが多いです。
庵野監督はさらに、その「役割を破棄した主人公」を当時の”子供たち”=”シンジ”と重ね合わせることで、25話、26話の自問自答がより視聴者視点へと置き換わるようなギミックとして組み込むねらいが感じられる構図となっています。

さて、TV版26話では最後シンジ君は「エヴァに乗らなかった場合のボク」の存在に気が付きます。
そこからいわゆる「学園モノ」世界が26話Bパートでは描かれ、シンジ君は「(エヴァに乗らなくても)僕はここにいてもいいんだ!」と発言したところで周りのキャラクターたちから「おめでとう」の賞賛を受けます。


▲有名な「おめでとう」のシーン

そして最後は「父にありがとう 母にさようなら そして、すべての子供達(チルドレン)に おめでとう」という文字抜きで物語は幕を閉じます。

旧劇場版(̪シト新生&Air/まごころを、君に)

シト新生では1話~24話の再編集と25話(Air)の追加カットによる総集編となります。
一般的には「完結したとはいいがたいTV版の25話と26話を物語として完結させた新生プロット」とされているため並行世界的な扱いを受けますが、物語的には双方が同時に存在していても問題ない構図になっています。
(個人的には映画版25話→旧劇場版26話の中盤まで→TV版25話→TV版26話→旧劇場版ラストシーンの流れだと思ってます。)

この「25話 Air」は「TV版の25話26話」とはアニメとしては全く別物のカットによって構成された話となり、続く26話「まごころを、君に」へと続いていきます。
この旧劇場版では、24話でカヲル君をシンジ君が撃墜した直後から物語は開始します。
”同じ人の形をした生物を殺してしまった”と傷心するシンジ君を他所眼に、NERV本部へ戦略自衛隊と国連軍が占拠を目的として攻め込んできます。
これはNERVによる人類補完計画をヨシとしない者達の計略であり、それにNERVは対抗せんと尽力します。
一方で、一人自分自身の目的のためにゼーレのシナリオとは異なる人類補完計画を進めるゲンドウ。
それに利用されるも自身という存在を疑問視するレイ。
子供達を守るために動くミサト、自分自身の存在価値を確認するアスカ・・・
サードインパクトを止めようと動く戦略自衛隊。
それを操り、サードインパクトによる補完計画を進めるゼーレ・・・
これらの人々の思いや行動を命のやり取りを通して描かれていきます。

ラストは初号機に乗ったシンジ君がサードインパクトのコアとなり補完計画が始動、人類はLCLに還元されます。
この時TV版の26話同様、深層心理的な描写が利用されます。

流れとしてはシンジ君に対して投げかけられる「キライ」という言葉のフラッシュバックに対して
林原めぐみボイスとシンジの問答が繰り広げられます。

 
▲有名な実写パート

「貴方がいるべきは現実の延長よ」
「けど、僕がいるべき現実がどこにあるのかわからないんだ!」
「それは、夢の終わりよ」

という問答を最後にこのパートは終わりを告げます。
TV版25話と26話で40分かけたパートを3分強で短縮して演出するわけです。

問答の中で「他人がいてもいい」という考えに至ったシンジとアスカのみは個体生物の形を保ったまま生存。
最後のカットではアスカの首を絞めるシンジですが、アスカに手を頬へ差し伸べられた瞬間首を絞めることをやめ嗚咽します。
それを見たアスカの一言「気持ち悪い」で物語は幕を閉じるというものです。

解釈の難しい映画となりますが、TV版では「エヴァに乗らなくてもいいんだ」という結論であったことに対して旧劇場版では「エヴァに乗る」ことをシンジ君は選択します。
”他人がいてもいい”という結論自体は出すものの、その距離感やシンジ君自体の感情は作中から読み取れず絶妙に消化不良と思える終わり方をします。
「シンジとアスカ以外はLCLになった」というのは公式設定のようで、97年時点でエヴァンゲリオンは”終わり”を迎えます。

「旧2作」からみる”エヴァンゲリオンの主題”

エヴァンゲリオンという作品はこれら旧作品においては”視聴者の現実への回帰”がメッセージとして謳われているように思えます。

また、放映時の時代背景も色濃く反映されています。
90年前半の最高景気による「明るい社会」から95年にかけてはバブル崩壊や阪神大震災、そして地下鉄サリン事件といった「暗い社会」を印象付ける物事が多く起こりました。
そして00年を迎える前の「世界の終焉」を予言したノストラダムスの大予言等、”現実を直視できない”ようなムードが95年前後では存在していたことと思います。

また、現代と異なり「アニメを見る」という行為もマイノリティでした。
令和の現代でこそ「オタク=マジョリティ」と言えるほどの勢力を誇りますが、当時は「えー、アニメ見てるの?キモっ」と言われる程度にはアニメは忌み嫌われ、場合によってはいじめへ発展することすらありました。
冗談言ではなく「アニメの世界に引きこもってるんじゃない」という言葉も今以上に存在していたものと思います。

こういった時代背景の中で、エヴァンゲリオンでは視聴者へ執拗なほどに「現実への回帰」を求めていきます。
そして、それを表現するために抽象的でありながらも印象的な演出を数多く仕込んできます。
コラージュのような作中画の再利用やループ、ストロボなどの過激な演出。
VJでも利用される演出ですがこれらをアニメで使った場合、”連続した映像”が前提となる作品において違和感を生じるため法則的に視聴者は「冷め」てしまいます。
こういった映像的な演出をはじめ、時には実写パート、台本の写真やコンテのままの利用などあらゆる手段を講じて現実とアニメ世界の境界を限りなく近くする演出を使い視聴者を”現実へ引き戻す”わけです。


▲旧TVシリーズ26話で使われた演出

また、アニメ脚本としてはTVアニメ版では「学園モノ」を題材に現実への回帰を作中で表現し、旧劇場版においては実写パートの利用と”エヴァンゲリオンという作品の終焉”によってそれを表現しました。

が、結局のところ「現実への回帰」は失敗してしまったのだと思います。
むしろ、エヴァンゲリオンは大ヒット作となったことで、”作品に熱中するファン”を増やしてしまった。
アニメから現実へ引き戻すつもりが、アニメの世界に背中を押してしまったわけです。

庵野監督の作ったエヴァンゲリオンは彼らに対して「伝えたいことを伝える」作品であったにも関わらず、結果としてはよりその規模を拡大し、深みにはまらせてしまった構図となってしまったわけです。
そして、旧劇場版でシンジがアスカを完全に首をしめ切れなかったように庵野監督は旧作品中で”エヴァを殺しきれなかった”のだと思えます。

さて、長くなりました。
そして10年後、”旧作品のリブート”ブームに乗じてエヴァンゲリオンは再び新劇場版として再始動します。

・・・というところまで理解した上で今回の作品を見ると解釈が大きく変わってきます。

シン・エヴァンゲリオンはいつ「途中下車」できるかで所感の変わる作品である

さて、前提知識の共有がようやく終わりました。
ここからようやく本編が記載できます。先に記載した内容を前提として記載していきますね。

まず、全体的なシン・エヴァンゲリオンに対する評価として「旧」を見ている場合この物語は「いつ途中下車できるか」でその評価が変わるものと思われます。
この「途中下車」という表現は作中、キャラクターが降りていくワンマン電車の表現に合わせて使用しているものとなりますが、視聴者は「碇シンジ」という電車に乗ってこの作品を視聴する構図であると主張します。


▲旧作だけでなく新劇場版でも登場する「電車」の中のカット、「エヴァンゲリオン」を代表する印象的なカットです。

まず「碇シンジ」への乗車ですが、これは作品を見ている人が「碇シンジ視点で作品を追ってしまう」という状況の比喩となります。

これは今回のシン・エヴァンゲリオンではなく、前回のQ時点で仕込みが始まっています。
Qでは作中の登場人物があれよこれよと物語を勝手に進める中、シンジ君は「よくわからないけど状況に巻き込まれた、この状況をどうにかしないといけない」という立場に追い込まれます。
この時、視聴者とシンジ君は世界に対して完全に同じ立場、同じ視点を持っていますから、このとき視聴者自ずとシンジ=視聴者自身と定義して作品を見てしまう手中に嵌るわけです。


▲Qに挿入される精神を病んでしまったシンジ君目線のワンシーンもこれに拍車をかける演出です。

シン・エヴァンゲリオンにおいては、この〇〇視点が物語の開始時点では「碇シンジ」というポイントに皆平等に設置されているにも関わらず、途中下車的にそこから離脱が可能で物語が終わったタイミングで人によって異なる視点での感想を言えるという構図が取られています。

この作品を見るターゲットとしては「旧をみてずっとエヴァを追ってる人」「新劇場版やパチンコからエヴァを知り追っている人」の大きく二種類が存在し、各2つの人種からさらに派生して「家庭を持った人」「大人になった人」「子供達」「変わらない人達」と細分化されていきます。

これらの区分の人たちが今回のシン・エヴァンゲリオンにおいては「作中で目線を変えるタイミング=途中下車するタイミング」がところどころで用意されていると感じました。
その結果として、シン・エヴァンゲリオンは異なる3軸である「エヴァ作品としての完結」「旧作品のリベンジ」「庵野監督自身のケジメ」すべてを見事回収して終劇できたものと感じています。

まずは、作中の流れから確認しましょう。

作中の流れのおさらい

まず、この記事の読者が新劇場版を見たことを前提としてまずはシン・エヴァンゲリオンの話の流れをおさらいします。

最初に「今までのエヴァンゲリオン」がおさらいとして流れ、その最後ではヴィレがフランスを開放する様子が描かれます。
フランス開放で相手となるのは使徒・・・ではなく”エヴァンゲリオン”。
苦戦を強いられるものの、マリの活躍によりこの戦いはヴィレの勝利で幕を閉じます。
そしてアンチLシステムによってフランスのパリが人類生息可能な領域へ開放されこのシーンが終了します。

場面は切り替わりOPと本編へ、この作品は時系列的にQでシンジ君が赤い大地を歩き出した後の話から物語は開始します。
Qでシンジ君が見た「滅びの世界」ですが、実態として世界はすべて滅んだわけではありませんでした。
フランス同様、ヴィレの用意した「アンチLシステム」によって一部の地域はLシステムが非活性化され人が現存でき、それぞれ生活を営んでいるのでした。
シンジはそんな人の住む地域の村へ案内されます。そして、その案内人は14年間経ち成長した鈴原トウジでした。
村で保護されるシンジですが、自身が世界を滅ぼしてしまった事実とQラストで再度エヴァンゲリオンに乗ったことで再び世界を滅ぼさんとした自身を信用できず塞ぎこんでしまいます。
しかし、アヤナミタイプ ナンバー6を始めケンスケ、トウジ、トウジの嫁となったヒカリを通して人の優しさに触れ自身の存在を再度許せるようになるのでした。

そんな中、シンジの父であるゲンドウ率いるNERVはセカンドインパクトの発生地である南極大陸へ向かいます。
ヴィレは「ファイナルインパクト」を止めるべくヴンダーを駆り最終決戦の地へ向かうのですが、
ここで碇シンジは自らの意思で、自身とそして父とのケジメをつけようとでヴンダーへと戻るのでした。

・・・ざっくり書くとこんな感じでしょうかね。

始発駅はQの終点。「優しい構成」から繰り出される過酷な”リアル”

シン・エヴァンゲリオンは今までのエヴァンゲリオンの作品を通してみたときに限りなく「優しい」構成となっています。
Qの答え合わせと後述する「旧劇とTVアニメ版のリベンジ」を前半の日常パートで限りなく丁寧に描き、最終決戦パートではエンタメとしての演出を織り交ぜながら「エヴァンゲリオンの終結」に向けて話が進みます。
その後のラストシーンでは、TV版や旧劇場版であった演出と新しい形での演出を織り交ぜながら進行し物語の主題とメッセージを伝えつつ物語は終劇へと向かっていく、というものです。

また、先に書いた旧劇場版で殺しきれなかったエヴァを殺しきること、そして庵野監督が”エヴァで伝えたかったであろうメッセージ”をより伝えやすくするための伏線として次のような「優しさ」がこの作品では含まれているように感じました。
しかし、この”優しさ”は反面見る人によって深刻なダメージを与える絶妙な線どりで演出されていることに感動しました。

シンジに”投影された”視聴者が見る「優しさ」

先の旧TV版にも記載をした通り、”シンジは視聴者の立場”として基本描かれています。

上述した話になりますが大事な話なのでもう一回。
Qで碇シンジと同じ立場で作品を見せられた視聴者ですが、この地続きでシン・エヴァンゲリオンを見れば、自然と前半パートで視聴者はシンジ目線で作品に没頭してくれるわけです。
尚、前半パートでは視聴者が「自分はシンジではない」と気が付けるタイミングがいくつか存在します。
これを以下に記述していきましょう。

視聴者への優しい「言って聞かせる説明」

さて、そんな視聴者シンジ君に対する優しさですが、まずは「言わないとわからない」という部分への説明から行っていきます。
今作においては今までにないレベルで”言葉”による解説となるセリフが感覚的に増えています。
各シーンでの説明、解説ネタバラシはあらゆるシーンで現れ、特に以下のような作中設定的な部分におけるアンサーは作中いたるところで解説がなされます。

・Qの世界は破の14年後であったこと
・サクラの「エヴァには乗らんといてくださいね」の真意
・ミサトのシンジに対する思い
・破以降のミサトと加持の取り巻く環境
・加持のスイカ
・ゲンドウの真意

加持のスイカとか正直「いうほど伏線か?」と思われるものまで理由付けや解説がなされていました。
大小さまざまではありますが、エヴァンゲリオンを終わらせる上で「もう伏線(と思われそうな要素)は残さないぞ」という強い意志を感じます。
この”説明の多さ=やさしさ”は次の「見せないとわからない」で語られる現実と相まり、視聴者に”厳しい現実”を突き付けます。

視聴者への優しい「見てわからせる説明」

続いて目に見える演出です。
全体的に画で見せているシーンは多いのですが特に顕著なのが、前半の村での生活のシーン。
ここれはわかりやすい伏線としてアヤナミタイプNo6が「働く」シーンを中心に人々の生活がかなり丁寧に書きこまれています。
そして同時に先に記載した視聴者=シンジ君を作中の彼の立場を利用し繊細かつ丁寧に、それでいて「リアル」に演出していきます。

シンジがまず村につくと病院のベットの上、そこで医者となったトウジ、そして”なんでも屋”であるケンスケと再会します。
それぞれが苦労し、彼らは14年の時を必死に生きているのに対してシンジはその時間をスキップしているわけです。
世の中の酸いも甘いも知らず、青春も生き残るための術も知らない。
自分は14年間何も変わっていないのに、小学校時代や中学校自体の周りの同期は結婚して子供もいて・・・という状況を作中で見事に再現しています。

ちなみにこの時、「トウジやケンスケ側」にいる視聴者はこの物語をすでに途中下車し、外側から眺めています。
年齢、世代的に旧TV版から視聴していた層だと思いますが、彼らはこの物語を外側から俯瞰できる立場にあります。
と、いった具合にシン・エヴァンゲリオンは徐々に、ですが確実に物語の前半パートを使って視聴者を「碇シンジ」という電車から途中下車させていくのです。

また、作中では「一見自分と同じに見える」人たちもいます。
それがシンジ含め、アスカ、アヤナミの3人です。
シンジ君は視聴者の役割を持っているから一旦外してもらうとして、アヤナミとアスカの2人はエヴァンゲリオン新劇場版以外でも露出の多いキャラクターですから、視聴者は勝手に彼女らのことを「知った気」で見てしまいます。
シンジ君の目線からも「エヴァパイロット」という同じ立場ですから、現実における”今でも付き合いのある友人”枠といったところでしょうか。

にも拘わらず、3人は「働く者」「働かないけど理由を持つ者」「働かない者」の3者として明確に書き分けられるわけです。
アヤナミは仕事生活の中では「ありがとう」「おはよう」「おやすみ」「さようなら」といった挨拶をヒカリを通してその意味を説いていきます。
Qではシンジがアヤナミに対して与える立場であったほど”何もできなかった人”がシン・エヴァンゲリオンでは立場が逆転するわけです。
仕事によって急成長する様をまざまざと見せつけます。

ここで視聴者は「アスカはぼくと同じだろう」と心のどこかで思うわけですが、ここでも”見せないとわからない”演出によって追い打ちがかかります。
作中前半部分では仄めかすレベルで、その実ケンスケと良好な関係を築いています。
最序盤のケンスケが裸のアスカに動じずにタオルを渡すシーンで、察しのいい人は「えっ、もしかして・・・」と思うわけです。
これも「見せないとわからない」演出の一環ですね。
さらには「私はここを守る者だから」という言葉をつぶやきますが、これも”エヴァパイロットとして”ではなく”家で妻としての立場”での発言です。
シンジと同じ目線である視聴者は、ここで完全に”一人置いてきぼりを食らっている”状況に気が付きます。
さらにさらにトドめとして、視聴者に対するダイレクトアタックが繰り出されます。
「アヤナミタイプ」と「シキナミタイプ」というワードです。
作中のシンジ君は新劇場版開始からの付き合いなので「アヤナミ」と「アスカ」ですが、旧版や他作品から見ている視聴者としては”僕の知っているレイじゃなかったおろかアスカも僕の知らないアスカなんだ”となるわけです。

後から記載していると、人によってはこれ鬱になるじゃないか?というくらいに前半の村パートにおいてはシンジと視聴者を追い詰めていきます。

尚、視聴者が「シンジから途中下車できる」タイミングこの前後で1つ存在します。
それは、”アヤナミがLCLへと還元されてしまうシーン”の前後です。


本予告:改2より

このシーンではシンジ君は村の人たちの優しさに涙し、アヤナミのプラグスーツが白色へ変化しLCLへと還元されていきます。
実は、このシンジの「優しくしてくれる」というシチュエーションは旧作でもシンジの印象的なセリフとして存在します。
それは「TVアニメ版 第弐拾話 心のかたち 人のかたち」のワンシーン。

この回は使徒との戦闘の結果、LCLへと還元されてしまったシンジ君が深層心理で自問自答する20分間。
いわば25話と26話の前哨戦ともいえるべき回です。
内容としては自分の存在価値に自身が無いシンジが「エヴァに乗るとみんなほめてくれる=エヴァに乗らないと自分の存在価値がない=だけどエヴァには乗りたくない」のループ構造に苦悩します。
Bパートの序盤で、「仕方なく皆を守るためにエヴァに乗ってるんだ!」
「僕をもっと大事にしてよ!誰か僕に優しくしてよ!」というセリフが入ります。

TV版のエヴァンゲリオンは先に記載した最終話の内容も含め「自己完結」的な脚本になっています。
ミサトも、加持も周りの友人もシンジに対して手を差し伸べますが父と疎遠、母とは離別であるシンジは優しさや愛に飢えており結局のところ最後までその手を取り合おうとはしないわけです。
一方で、「それでも自分はここにいてもいいんだ」と気が付くことで「おめでとう」の言葉が与えられます。

シン・エヴァンゲリオンにおいてはシンジが「みんな僕に優しいんだ・・・」というセリフが存在しました。
続けざまにアヤナミタイプのスーツが白くなり、”TV版”の姿に戻るわけですがこの時旧TV版を視聴している世代は自分がシンジではないことにメタ的に気が付け途中下車することができます。
シンジを見守る立場にシフトするわけです。

と、ここでシンジ君から途中下車できなかった人には、最後の仕上げがまっています。
「シンジ君も君とは違うんだよ」を前半パートのラストと中盤を使って描くわけです。

上述の通り、TV版のシンジ君は人から手を差し伸べられてもそれを返す描写は無く、結局26話のラストの「僕はここにいてもいいんだ!」の一言にすべてが集約されています。
このTV版の表現はシンジ君が自己完結で立ち上がったようにも見え、人によって解釈の幅がありました。
一方でシン・エヴァンゲリオンにおけるシンジ君は上に記載した通り「みんな僕に優しいんだ・・・」というセリフを起点に物語前半パートのラストから見事に立ち直ります。
”人に優しくされた”ことで自身の存在意義に気が付くわけです。
これは旧TV版と異なりセリフで優しく解説が入りますが、これにより解釈の幅が無くシンジが立ち上れたきっかけが「セリフによって解説」された状況となっています。

このシーンを皮切りにシンジ君は”最後まで途中下車できなかった視聴者”を置いてきぼりにしていきます。
不器用だけど周りの人のために働いたり、ミサトと加持の息子に出会ったり、他人を認め中盤突入のタイミングでは自らの意思でヴィレへ戻る決意までします。

という下準備が完了したところで、いよいよこの作品の主題である「現実への回帰」を促す終盤フェーズが始まります。

派手な戦闘シーンとその先

さて、シンジ君が決起したところから中盤が始まります。
ヴィレに戻る決意をするシンジ君、そしてそれに対するアスカの「あっそ、じゃこれ規則だから」の暗転。

舞台は村からヴンダーへの移り、描写はヴィレの面々の視点へと変化します。
ヴィレの駆るヴンダーはNERVの野望を阻止すべく南極へ向かい最終決戦へと臨みます。

シーンは気絶したシンジ君が目を覚まし、ヴィレの医務室で目を覚ますところから始まります。
Qの時にトウジの妹であるサクラはシンジに対して強く「エヴァだけには乗らんといてくださいね!」と発言します。
シン・エヴァンゲリオンでは、このセリフに対するサクラの”思い”まで解説が入ります。
シンジがエヴァ初号機に乗ったためニアサードが発生した。けど、乗らなかったらみんな死んでいた。
シンジは恩人であり敵であるという複雑な心理描写がセリフとして解説されるのです。
今までのエヴァではありえないほどの「優しい」直接的な表現であると言えます。


▲Qの「エヴァには乗らんといてくださいね」のシーン

また、さらにミサトを始めヴィレクルーからの理解と和解をシンジ君は次々と経ていきます。
つい1時間前まで「視聴者と同じ視点」だったはずのシンジ君はあっという間に視聴者を置いてきぼりにして、”エヴァンゲリオンの世界”を突き進んでいきます。
トドメはアスカとの和解シーン。

「僕はあの時何もしなかったから、何もしなかった結果アスカを守れなかった。責任を負いたくなかったんだ」

というセリフに対しアスカは

「ちょっとは成長したってことね」

というシンジを認める発言をし、”同じオトナという立場に立とうとするシンジ”に対してこう続けます

「昔はシンジのことが好きだったんだと思う」
「僕もだよアスカ」

このシーンのシンジは過去の過ちや自分の過失を完全に認めつつ、それを背負って未来に進もうとするシンジが印象的に描かれています。
もうこの時点でシンジは完全に視聴者からは離れており、自身のエゴや償えないと思っていた過去の罪への認知が進んでいることがわかります。

前半パートで最後まで途中下車の出来なかった人は、唯一の中まであったシンジ君すら離れ、Qの開始と同じシチュエーションに置かれているはずです。

一方この時、途中下車できたであろう人は物語を俯瞰して見ています。
また、旧を見てから成長したであろう世代、子供や家族を持った人たちはこのタイミングでシンジに庵野監督の影を見て、「物語を終わらせに来たな」という雰囲気を感じれたはず。
この段階でエヴァンゲリオンに捕らわれた人と、エヴァンゲリオンの終わりを見に来た人では埋めようのない乖離が生まれています。

そして物語はそれをうやむやにするように、新たなワードの連続と最終決戦に至る怒涛の戦闘シーンが繰り広げられます。
視聴1回目は正直このシーンは「ノリと勢い」で見てしまったため、何か真意的な演出もあったのかもしれませんが自分は終わりに対する助走が始まったのだと感じました。
何より新たなワードに対する解説が逐一入る。
Horseman、ゴルゴダオブジェクト、アディショナルインパクト、ヴンダーを用いた儀式、それぞれがワードとして初出なのにも関わらずミサトやリツコの解説が咄嗟に入り、さらには「実際に使用」されます。
過去作であれば「ほのめかして終わり」だったワードがすぐさま使用され、「これが何なのか」直感的に理解できるようになっていると感じました。
そして、急降下しながら戦うエヴァンゲリオンの派手なシーンは正直細かいことはどうでもいいやと思わせてくれる迫力があります。
このシーンはもう一度確認したいですね。
そして、アスカの使徒モードへの移行とそれを利用したファイナル・インパクトの発動を境に物語は終盤へと向かっていきます。

尚、この間シンジ君はずっとダンマリです。
まるで悟ったかのように次の出番を待ち続けます。

次のシンジ君の出番はゲンドウが13号機に乗り込む直前の「父さん!」というセリフ。
旧TV版、旧劇場版、新劇場版3作を通して「一度も描かれなかった」シンジとゲンドウの父と子の対話が、シンジの推進力を糧に開始されます。

個人的な感想ですが、旧からみていた身としてはこのあたりから「エヴァという作品の終わり」をひしひしと感じてすでに感慨深いものがありました。

終盤で書かれる旧劇場版とアニメ版のリベンジとその発展

さて、終盤は怒涛の展開となります。
シンジ君はミサトさんと和解、ミサトさんはシンジ君に対して「彼はまだ私の管轄下です!それはすなわち彼の行動の責任は私にあるということになります!」と発言。
ここで終わってもよかったのですが、大人になったシンジ君はこれに対して「けど、その責任の半分は僕が背負うよ」と発言します。

もう完全にオトナです。シンジくん。

多分大人でもこれを言える人は中々いないんじゃないか?というレベルでシンジ君の成長っぷりが凄まじいです。
これによって破のラストからQにかけて保留されていた、ミサトとシンジの蟠りも解消されます。

そしてマリと共に父ゲンドウを追うシンジ。
エントリープラグのポータルから初号機へ向かうシンジに対しマリは
「必ず見つける、必ず迎えに行く!」といいます。
シンジも「うん、待ってる」と回答します。

ここらへんで、少し旧作のシンジ君を振り返ってみましょう。

旧TV版ではエヴァに乗らない選択をとったシンジ君。
乗らなくても自分の存在価値を認められた結果でした。
アニメの主人公としての役割は破棄します(エヴァに乗らない)が、シンジ=視聴者の構図を守り視聴者の存在価値を与える存在となっています。
周りの人は手を差し伸べますが、手を取る描写は直接的に描かれません。

旧劇場版ではエヴァに乗る事をシンジ君は選びます。
最後は他人と自分は別物と認知した上で自己の存在を認めます。
アニメの主人公としての役割を持ったまま(エヴァに乗る)、作中のキャラクターとしてアニメの世界に残ります。
シンジの意思に反して世界が滅ぶことで視聴者は物語の終結を持って現実へ回帰するよう促します。
周りの人はシンジを見守りますがシンジの目線からは差し伸べられたと感じる描写が描かれません。

今回のシン・エヴァンゲリオンではシンジ君は初号機に乗る事を選びます。
そして、乗った上で作品を終わらせにかかります。ここまでは旧劇場版と一緒です。
しかし、旧劇場版と異なるのは結果の経緯として”シンジがアクティブに動く”という大きな差があります。
そして、後ろにいる周りの人たちが明確にシンジに手を貸す描写が描かれるものになっています。

少しづつ追っていきましょう。
マイナス宇宙の中、エヴァ初号機に搭乗したシンジはエヴァ13号機に乗ったゲンドウと対峙します。
このときエヴァ初号機と13号機は大三新東京市のセット、家のセット、学校のセット・・・とあらゆる舞台を”セット”と見立てて対立していきます。
これは旧作から続く、「シンジの父に対する敵対意識」をオマージュしたものとなります。

 
▲TV版20話のフラッシュバックシーンで「敵・テキ」の文字と「使徒」そして「碇ゲンドウ」が高速で画面切り替えする描写があります。

余談ですが、この時エヴァ2期を特撮セット上で戦わせ、カメラアングルから何まで”特撮感”を出す演出をされたのは庵野監督がシン・ゴジラで名実ともに「特撮の人」となり、自身におかれましてもその表現をエヴァンゲリオン上で自身をもって演出される「決意と自信」というものを感じました。
さらに、特撮特有のスケール感をセットの移動によってあえて封じることで「リアルな暴力による親子喧嘩」を表現されたのも深く深く感動しました。僕はこのシーンで正直泣きました。

ありがとうございます。庵野監督。

と、余談はほどほどにして続けます。
この「親子喧嘩」ですが、エヴァンゲリオンシリーズとしては「待ちに待ったシンジとゲンドウの直接対決」なわけですが前半パートを途中下車した人たちは感覚的に「これでは決着がつかない」ということを感じるはずです。
旧TV版から見ていた人、そこから成長した人、新劇場版から見たけど家庭をすでに持ってる人・・・立場は様々ですがこの親子によって必要なものは「対話」であるということを理解しているはずです。

そして、シンジはそれに気が付きゲンドウとの対話に臨みます。

もはや「エヴァンゲリオンから降ろされる」のは我々だけではない

ここからは正直圧巻でした。
前半パートで降ろされた身としては、「ここまでやるのか」と正直開いた口がふさがらない状況でした。

ゲンドウがTVアニメ版25話、26話のように語りだします。
TVアニメ版25話ではミサトとアスカとレイ、26話ではシンジの心理描写の掘り下げを行いましたが、シリーズ通してゲンドウは初です。
ひとしきり語り、シンジの中にユイの断片を見たゲンドウは電車から降りていきます。

対話による最終決戦の終結。作品内での設定的にシンジは「ファイナルインパクトの権利」を得ます。
これはシンジが思った通りに世界を書き換える権利を得たということです。


▲シン・エヴァンゲリオンではシンジの座っていた席にはゲンドウが、シンジはレイの座席の位置からそれを通路から見るポジションへと変化します。

この「権利を得たシンジ」が起こすアクションが「作中登場人物を物語から降ろす」という行為です。
旧劇場版では、全員をLCL化させ終焉させたところをシン・エヴァンゲリオンではシンジが登場人物一人一人と対話して「もう戦わなくていい」と電車から降ろしていくわけです。

”エヴァンゲリオン”という作品に捕らわれた登場人物。
これを丁寧に「もうこの物語に付き合う必要はない」と言わんばかりに舞台から降ろしていく。
演じられたキャラクターは消滅し、視聴者はそれを見守ります。

アスカとの対話では旧劇場版と同じアングルでアスカとシンジが映し出されます。
二人は同じ距離感で同じように砂浜にいますが、空は青く海も青い。
そして、今のアスカにはケンスケがいます。
旧劇場版と異なり、このカットで”アスカと別れる”のは感慨深いものがありました。
レイもアスカも旧作品から登板するいわゆる「人気アニメキャラ」。
これらは虚構の存在であることを明確に描き切り、「アニメキャラはアニメキャラで仲良くやってね」と言わんばかりの書きっぷりであったと感じました。
ある種、レイとアスカファンは「公式から告げられた”ごめんなさい”」だったと思うのでショックでしたでしょうね。

そしてエヴァ初号機とエヴァ13号機、それに連なる「エヴァンゲリオン」をシンジはミサト始め「支えてくれる人たち」の手によって作られたガイウスの槍で貫こうとします。
ここで、エヴァの中にいたユイがシンジを開放し、自らはエヴァと共に消滅するよう動きます。

この時演出として今までは「シンジの俯瞰」で降りていく人を見ていた所を「エヴァの俯瞰」ではなく、「シンジの俯瞰」で物語が進むため”エヴァンゲリオンという物語”から降ろされたのはシンジではなく、”エヴァンゲリオン自体”であることが掴めます。
そして、初号機、13号機、弐号機、零号機・・・と歴代のエヴァが槍によって貫かれ消滅していきます。

そして、カットは「旧版からお約束」演出であるコンテカットへと移ります。いよいよ現実への回帰です。
砂浜に残ったシンジをマリがが迎えに来て、そしてエヴァンゲリオン10+11+12ryが消えていく。
「ありがとう」の言葉と共に、エヴァンゲリオンの世界はシンジとマリ以外を残して消滅します。

次のシーンは成長した「シンジ君と思われる人物」と「マリと思われる人物」が駅のホームで邂逅するシーン。
背景のみ実写に近い表現で演出され、キャラクターはアニメ画です。
しかし、シンジ君と思われる人物の声は俳優の神木隆之介氏になっています。
※なおCastは声優と俳優のみで、対応キャラクターは記載がないため「シンジ君と思われる人物」の名称は不明

そして、2人はホームの階段を駆け上がり、庵野氏ゆかりの地である山口県宇部の遠景カットを最後に物語は幕を閉じます。

▲最後のカットの舞台となった宇部駅のホームと駅前。GoogleMapより

まとめ:君はエヴァンゲリオンから降りられたか

ということでまとめに入ります。

シン・エヴァンゲリオンは、旧作品と類似の演出をしながら全く異なる視点と表現を行い、様々な要素を伝えんとする構図が垣間見える作品です。

旧作品を見ている人はその演出に懐かしみつつ、異なる世界へと進む様子を見て完結したと考える。
新劇場版から見ている人は、シンジ君の主人公としての役割を果たし、物語を終息させたと感じる。
庵野監督ファンは、節々に用いられる「マイナス宇宙」や「ゴルゴダオブジェクト」といった特撮用語や演出からTVアニメエヴァンゲリオンの終わりと庵野監督のこれからを感じる。
かつての”子供達”はゲンドウを反骨精神として、本作のシンジと同じ立場に立てるように
今の”子供達”はシンジの背中を見れるように
かつてから今までずっと”子供達”である人はなにやってんだお前と言われんばかりのメッセージ性が込められています。

先に記載したことをまとめると、全ての視聴者がQという作品で同じスタート地点に立たされ、このシン・エヴァンゲリオンでは「いつこのエヴァンゲリオンが虚構であるか」の途中下車ゲームに組み込まれる。
前半パートから作中に仕込まれたポイントで順に降りていき、どこで降りるかでその感じ方が変わってくる。

乗っていたファンから降りていき、最後はキャラクターまでもが下車させられる。
最後のカットは「電車に乗っていく」シーンではなく「電車から降りた後」のシーンなのもそういう意味なのではないかなと。

ただ、1つ共通の感想があると思うんです。

「さらば、エヴァンゲリオン。次のステージは線路を降りた向こう側だ。」

追記:One more think.

最後のカットについて

最後のカットですが、「現実への回帰」を表現したものと思いましたが個人的にあの表現は「SSSS.GRIDMAN」の存在が大きいのかなと思ってます。
ご存じ特撮「電光超人グリッドマン」を原作に持つSSSS.GRIDMANは全編アニメで展開されるもののラストは現実世界へという「特撮」という世界観をうまいことアニメに掛け合わせた”現実への回帰”を成し遂げて見せたアニメとなります。
また、この作品は「特撮」と「アニメ」へのリスペクトやオマージュ演出がかなり多く、その随所に「エヴァ」を彷彿させる演出も存在していました。

エヴァもそのまま神木隆之介氏を起用して実写パートをしてもよかったと思ったのですが、グリッドマンが「特撮の」作品であるからして、エヴァでは「これをアニメの世界で実現しよう」という気迫と特撮界隈とアニメ界隈双方へのレスポンスを感じました。

実写背景にアニメを落とし込むのはMVやPVではよく使われる手法ではありますが、作中の経緯や旧作品から「やりたかったこと」をあぁいった形で実現したのは中々感慨深いものを感じました。

シン・エヴァンゲリオンの主題について:1995年から約25年、時代背景はどう変わったか

かつて平成初期、バブル崩壊後の暗い時代に生まれた「エヴァンゲリオン」ですが、令和に完結したこの作品ではどういった時代背景が反映されていたでしょうか。
前半パートでの「自給自足」や「復興」といった、SDGsや東日本大震災を彷彿させるものから始まり、ミサトさんがシンジ君にガイウスの槍を託す。95年以上に執拗に描かれる「次の世代を後押しする大人」の存在。
カヲル君の「次の世代、NEON GENESISへ」というセリフも「新世紀エヴァンゲリオンへ」ではなく、素直に「NEON GENESIS(新世代)」の若者たちへという意味と捉え、”次の世代へつなげていこう”というメッセージ性が強く出ていると感じました。

先の全体的な感想の中で異なる会社を得たとしても、どの世代に対しても「次につなげる」というメッセージは共通のものであるのだと思います。

ただし、庵野監督はそれを伝えるところまでがエヴァンゲリオンであり伝える先の方法としてエヴァは取らなかったようです。
なぜなら、今回のキャッチフレーズは「さようなら」ではなく「さらば」なのですから。

 

最後に

この考察を書く上で感想を話し合ってくれた一人の友人に感謝を