こんにちは、szkです。
GW、完全にゲームしかしてないぞ!ブログも書いてないどころかバイクにすら乗ってない!
何してたかというと無限にゲームしてました。
ゲームはコスパいいよなぁ、8千円払うだけで100時間は時間潰せるんだから最高のヒマ潰しだぜ。
ということで、GWはNewポケモンスナップとニーアレプリカントver1.22(以下略という気温差で風邪ひきそうな組み合わせのゲームをプレイしてました。
まぁその実ニーアはエアプで、彼女がプレイしていたのを同じTVを横から見てた感じ。
一部のサブクエはプレイしましたが、全体通してストーリーのみを楽しんだ感じです。
なのでプレイフィールなどの話は置いておいて、ストーリーやら作品の空気感みたいなものを改めて”ニーア全体”を通して感想書きたいと思います。
はじめに&この記事のターゲット
この記事は10年前に発売となった「ニーアレプリカント」、4年前に発売した「ニーアオートマタ」の演出を前提とした感想記事となります。
これら2作品はあまりにも演出が有名になりすぎたので、これらの演出については一切のネタバレを開放して記事を書きます。
なので、これら2作品を未プレイ&演出を知らない人はこの記事を読まずにニーアレプリカントとオートマタを購入してプレイすることを強くお勧めします。
記憶を消して初見でやりたいゲームにピックアップされる作品なので、絶対に感動できると思います。
そして終わった後にこの記事読んでください。お願いしますなんでもしますから。
一方、ニーアレプリカントPS3版orニーアゲシュタルトをプレイ済みで「もうシナリオも知っているから今回は見送り」としている人は是非読んでもらいたいです。
いや、記事読まなくてもいいからNieR:Replicant v1.22…は買って?
ニーアレプリカントって?
ということで、ネタバレを知らない人はいなくなったな!
といいつつ、初心者にもやさしく記事を書いていこうと思います。
そもそもこのゲーム、やたらくっそ長いタイトルですが、案の定リメイク作品だったりします。
元々は2010年にPS3とXbox360で発売していた「ニーアレプリカント/ニーアゲシュタルト」というゲーム。
その名前の通り、2017年に発売されたNieR Automate(ニーアオートマタ)の前作品という立て付けです。
今回は「Ver1.22…」の名前の通り”ニーアレプリカントをベースとしたバージョンアップ作品”という名目で販売されてます。
ちなみに、このやたら数字が羅列されるのはオートマタからの演出一環で、ファン目線からすると「v1.x以上になったということは何か追加があるんだな」という示唆ができるようになっていたりします。
余談ですが、このニーアシリーズ、さらに辿るとシリーズの背景としてドラッグオンドラグーン(DOD1)というPS2時代のゲームがストーリー前提にあるなど沼が深い。
しかしながら、DODシリーズは未プレイでも全体的な話に支障は無いのでとりあえず気になる人は「オートマタ」と「レプリカント」をプレイすればよいと思います。
(前段が終わったので以下ですます調終了)
レプリカントとオートマタの魅力を語りたい
全体の雰囲気について
レプリカントもオートマタも基本的には「荒廃感」「終末感」が作中の雰囲気を包むゲームとなっている。
オートマタはむき出しになった鉄筋コンクリートが植物に覆われた見てからの「廃墟」が立ち並ぶわかりやすい荒廃感が味わえる。
一方でレプリカントは中世の雰囲気の世界観を覆う「謎の奇病」と「謎の侵略者」が包み込む絶望感が前面に押し出されている。
双方、こういった終末感の中でストーリーを進めることとなる。
オートマタ/レプリカント双方、世界情勢はわからないが主人公のやる事は明確というスタートでストーリーを進めていくのだが、物語が進むにつれて世界の情勢や背景、自分が今まで何をしてきたのかがどんどん明らかになっていくというのがこのゲームの醍醐味になっている。
この要素は従来エロゲをはじめとするノベルゲーに多く見られる演出で、欲に言う「タイムリープもの」に近い。
最早解説するまでもないが、タイムリープものとはノベルゲーが主であったエロゲ界隈で「周回する」ことを前提としたときに1周目と2週目の扱いを「異なるときの流れ」として取り扱う手法のこと。
古くは1990年代のノベルゲームであるDESIRE。
有名にしたものとしてはマヴラヴシリーズ(2003年)やシュタインズ・ゲート(2009年)などが挙げられる。
”周回”が要素として存在するTVゲーム界隈もこの演出は実は割と早期に取り入れている。
有名な作品として挙げられるのがスクエアの「ゼノギアス」(1998年)だろう。
ただしタイムリープをするわけではなく、あくまで”別視点”での物語が進行する形となっている。
この作品もノベルゲームの影響を強く受けた名作なのでよければチェックしてもらいたい。
▲ゼノギアスはDisc2枚組だが後半は「ノベルゲー」と呼ばれるくらいにテキスト量が多い印象があるゲームだ。
(画像はニコニコ動画「-Xenogears- ゼノギアスプレイ動画 Ep71」から)
ニーアシリーズの始祖であるドラッグオンドラグーン(2003年)からこのゼノギアスの影響を受けていると思われる演出が多い。
NieRに至っては”別視点での周回演出”の他”ノベルパート要素”も組み込まれている。
▲ニーアレプリカントのノベルパート。不評らしいが僕は好きです。
これら「ラノベ」要素とそれを軸とした「周回要素」をそのまま使っただけでは、ゼノギアス文脈をベースとしたゲームにしかならない。
実際ドラッグオンドラグーン(DoD1)はどのエンディングも胸糞悪いバッドエンドという「鬱ゲー」として名を馳せたが、ゲームデザインとしてはアクションRPB版ゼノギアと言えるゲームだったように思える。
ニーアシリーズはこれをベースに”もう一癖”加えて名作となった作品と言える。その理由は後述したい。
周回要素に対する補足
周回要素についてもう少し補足しておこう。
上記の通りでニーアシリーズでは、ストーリーを”周回”することが前提となっており、マルチエンディングをすべて見て初めて”ゲームクリア”となる設計になっている。
(そのためAllエンディングコンプリート(4週)までプレイ時間が40時間程度と1周が比較的短い)
2週目では1周目で知りえなかった事実が、3周目ではさらにその先の真実が次々と明かされていく。
1周目でプレイヤーが戦っていた「敵」は何ものなのか、それを知りながらも2週目以降プレイヤーは「敵」を倒し続けなければならない。
善悪では測り切れない各キャラクターそれぞれの「正義」がぶつかり合い、結果世界全体の終末へと転がり落ちていく様は儚くも美しくすら見えるのだ。
「第四の壁」が迫ってくるゲーム
先の項で「ニーアシリーズは”もう一癖”要素を加えたことで名作となった」と記載した。
この要素が「第四の壁の超越」である。
このゲームは「軽率に第四の壁を越えてくる」のだ。
一応補足しておくと第四の壁とは舞台用語の1つで舞台の上にいる「役者=キャラクタ」と舞台を見ている観客の間に存在する「壁」のことだ。
この壁は舞台上無い前提で話が進むが、突如としてこの壁を意識したセリフを離すキャラクターが存在したりする。
有名どころだとデッドプールなんかだが、要するにオタク的用語でいうところの「メタ視点」というものだろう。
ゲームの場合、作中のキャラクターがプレイヤーの存在をある程度認知して行動をとるという演出のことを指す。
ニーアシリーズでは、この演出を巧みに使うことでプレイヤーは「ゲームの世界から観察されている」感覚を覚えるようなゲーム設計がなされている。
今作v1.22は無論過去に発売された「レプリカント」のリメイクであるためこの要素は”過去作(v1)通り”健在だ。
シリーズを通して第四の壁を越えてくる小さい演出を以下に例として挙げておきたい。
~レプリカント~
(巨人型のボスの口に爆弾を入れるギミックを見た主人公)「どっかで見たことある方法だね・・・」(ゼルダシリーズに対するメタ)
(長距離歩いて移動しないといけないシーンで)「ワープが使えたらいいのになぁ」「やめておけ、かつて古代魔法で試作したものが皆死んだ」→ファストトラベルが無いことに対するメタ
(ゲームが2回目の場合、同じ武器を入手して)「これすでに持ってる武器なんだけど・・・」「しっ、2回目だから色々あるのだ」
というような「ゲームのキャラがプレイヤーの思うであること」を先回りして発言したり。
~オートマタ~
(カメラを主人公の下着が見える位置にずらすと)「何を見ている?」→カメラにキック入れられる
~共通~
作品要素をすべてコンプリートした後に作中キャラクターのボイスで「本当に、本当にありがとうございました」と言われる。
といったプレイヤーの操作心理に対してレスポンスする反応が数多く仕込まれている。
驚くべきことは、これらの演出の多くがゲームの仕組み的として投入されているわけではなく、ただシナリオやゲーム進行的に「そろそろプレイヤーがこう思いそうだな」という製作者側の”心理的な読み”ただ1点で仕込まれていることが憎い。(カメラ方向は別)
ゲーム的には「特定のポイントに来たらセリフが再生される」だけなのだが、思わずコントローラーの入力をやめてしまうような感覚を覚えるわけだ。
これを「技術」で行った作品としてはMGSのサイコマンティス戦(メモリカードのセーブデータを読み取ってプレイヤーの趣味趣向を当てる)などがあるが、「読心術」的に行ってるこのゲームはむしろ下手な小手先が無い分気色の悪さすら感じる。
ニーアレプリカントでは、こうした巧みな演出を織り交ぜつつ先に記載した”周回要素”によってプレイヤーは精神的負担を強いていく。
ネタバレ前提記事であるのでここまで読んでいる人はすでにご存じだと思うが、主人公は人間ではなく、その主人公が”殺してきた敵”はプレイヤーと同存在=人間であることが判明するからだ。
無論この事実を知っているのは客観的に見ているプレイヤーであって、操作される主人公はそのことを知らない。
なのでプレイヤーは2週目→3周目と進めるために敵が「殺してはいけない存在=人間」であることを認知しながらもそれを殺していかなければならないのだ。
「RP(ロールプレイング)」ゲームであるのに、RP先である主人公とプレイヤーで確実な意見乖離を引き起こる。
一方、そんな中作中プレイヤーが同調できるキャラクターが1人存在する。
それが本作の主人公級キャラの1人であるカイネだ。
▲カイネ
このキャラクターは、作中ひょんなことから仲間になるのだが1周目はその行動原理もわからず謎多きキャラとして取り扱われる。
しかし、2週目以降はこのカイネが「実は敵の声を聴いていた」という視点で進行する演出がなされる。
これを通して1周目のカイネの謎の行動と敵の動向をプレイヤーはカイネを通して同時に知ることになる仕組みになっている。
無論、他のキャラクターは敵の声が聞こえないため、プレイヤーは「人間を殺しながら進む」ほかないのだが、葛藤しながら戦うカイネに対してのみプレイヤーは感情移入できる余地が残されている。
「周回」を重ねて一定条件をクリアすると3回目、4回目のエンディング(Cエンド・Dエンド)が追加される。
このエンディングは選択制で簡単に言うとプレイヤーは「主人公を生かしてカイネを殺すか、カイネを生かして主人公を殺すか取捨選択させられる」。
これはストーリーを見ているとただ、2人が生き別れるだけなので「なんでこの2人を選ぶんだろう」(妹のヨナとカイネの選択制じゃないんだろう)と思うかもしれないが、第四の壁を意識して考えると「1周目から自身の分身として動いてきた(が、事情はわからない)主人公=自分を救い”ゲームとしてのエンディング”を見るのか。はたまた”作中救われることが無かったカイネを自身を犠牲に救いうのかを選ぶ形になっている。
有名な話なのでネタバレを書くと、この時「自信を犠牲にしてカイネを救う」選択肢を選ぶとセーブデータが実際に削除される。
今まで集めたアイテムも、サブクエスト達成率もすべてのデータが無に帰すのだ。
これによってNieRの最後の選択肢は非常に重いものになっている。
ただのゲームの選択肢として主人公の存在を消すのではなく、自分自身のゲーム内でのプレイ時間を「存在」として天秤にかけるのだ。
▲ちなみに主人公の名前は自信で自由につけられるのだが、上記選択肢の後に同じ名前を入れようとすると上のような表記になる。
文字で淡々と描くと伝わりづらいが、この最後の選択肢は実際にプレイしていると中々迫るものがある。
何かというと今までゲームが現実に寄ってきていたのに、最後の最後に「気が付いたらプレイヤーがゲーム側にいる」のだから。
いきなりこの選択肢が出てきたら拍子抜けなので、過去の演出はすべてこのための”前座”であったことがわかる。よくできている。
尚、この演出はNieR:Automateではさらなる進化を遂げている。
AutomateではA~Eのメインエンディングが存在する。
A~Dのエンディングの文脈としては「主人公の全員、あるいは一部が(望まない形で)失われる」ものになっている。
プレイヤーはこれを回避したい欲に駆られるのは当然のこと。
しかし、DoDから続くファン思想的には「今回も全員救われないんだろうな・・・」と思うわけで、これが最後の最後のタイミングCエンドのスタッフロールが流れた後に”作中の思わぬキャラクターによって差し伸べられた手によって”成し遂げられることになる。
スタッフロールは巻き戻され、真エンディングである「Eエンド」へ分岐する。
この時、プレイヤーは運命にあらがうために「スタッフロールと戦う演出」が発生する。
▲上から下に流れてくるスタッフロールをシューティングゲームに見せ、”流れきるまで耐える”必要がある。※画面はNieR:Automateのもの
無限にコンティニューは可能だが、作中最も厳しい弾幕であり通常ならノーコンティニュークリアは不可能だろう。
これに対して「失敗すればするほど世界中のプレイヤーから声援が届くシステム」になっている。
▲コンティニューの選択肢も中々挑発的。これをひたすら耐え抜かないと真エンドにたどり着けない※画面はNieR:Automateのもの
また、一定数失敗すると他人の支援が受けられる。
これを受けると時機が無敵になるのだが・・・
被弾するたびに「〇〇のデータが失われました。」という不穏な表示が出るようになる。
しかし、兎も角これでEエンドが見れるわけだ。
ひとしきりムービーを見終わった後に次のようなやり取りが行われる。
???「???からプレイヤーへ質問がある。NieR:Automateをクリアできない人に対して伝えたいメッセージがあるか。」
このセリフから始まる演出は、まとめて書くと「自身のセーブデータを犠牲に他人のクリアの助けを申し出ることができる。君はそれを行うか?」というもの。
上で表示されていた「〇〇のデータが失われました」というのは、つまりそういうこと。
演出上、「自身のセーブデータをネットワークへ放流し、他人の助けとする」流れになっている。
申し出に対してかなり辛辣な確認が5回ほど繰り返される当たり、かなりゲームとしては挑発的なのだが、これは実際にプレイしていない人はプレイして体感してもらいたい。
▲これ以外にも「助ける人はランダムで、その人は君の嫌いな人かもしれない」や「感謝されないかもしれない」等辛辣な確認が続く※画面はNieR:Automateのもの
んでもってNieR Replicant ver.1.22474487139…の感想
ということで、クッソ長い前提のお話をしたうえで、なるべくネタバレせずにv.1.22…の感想を記載していきたいと思う。
色々上で御託を捏ねたわりに、まずは表面的なことから記載していきます。
まずPS3版とは別ゲーだと思ってもいいくらいにゲーム全体の質が上がっている。
キャラクターグラフィック
はい、別人。
上がPS3版で、下がv1.22.
当時何とも思わなかったけど、今見るとPS3版がすごくしょぼく見える。
なんだよPS3版はチョコボみたいな髪型しやがって。
フィールドでもこのクオリティなのでカメラをニーア君に向けて小一時間眺められる程度には美形。
正直、惚れそう。
ついでに成長した兄―アこと青年ニーアでも比較しておきましょうかね。
( ゚д゚)・・・・
( ゚д゚)・・・・・・・・・・
( ゚д゚ )!!!?
惚れたわ。
正直これだけで買う価値あるぞ
戦闘描写
戦闘シーンもかなりブラッシュアップされてます。
▲PS3版
▲v1.22
PS3版が今見ると「ブン・・・・・・・・ブン・・・・・・・・ブン・・・・・・・」だったのに対して
V1.22は「シェイシェイハ!!シェイハッ!!シェシェイ!!ハァーッシェイ!!」といった感じ。理想のテンポだシェイシェイハ。
というか、ニーア君その蹴りモーションなんだよ。PS3版のときは無かったろ。
ニーアオートマタで培った技術がふんだんに盛り込まれた戦闘はテンポもよく、PS3版であった戦闘のわずわらしさは一切ないと言っていい。
コンボが増えたので過去作になれてる人は、最初は思った通りに動かないかもしれないがそれも慣れなのでより良くなった戦闘を楽しもう。
音楽
音楽は実際に聴いて比較できないのが悲しいけど、音楽はすべて再集録になっていた。
そう、PS3版と同じ曲はDLCコンテンツで収録されていたアレンジCD収録の一部楽曲を除いて全部別物。刷新されている。
正直昔の曲は昔のバージョンでよい曲があるので、別のアレンジとして双方愛でたいところだな!
僕は昔のサントラも持ってましたが、v1.22のサントラも買ったぞ!別物だった!!
うーん、同じ曲のはずなのに新しい方が44秒も長いぞおかしいなぁ!
よく見たら公式でアトラクタムービーが公開されてて「イニシエノウター運命ー」が使用されてた。
昔の版を覚えてる人はその違いに驚くはず。
ちなみに個人的な感想としては、音楽単体で聞くと「過去作版のが好きかも」という楽曲もいくつか存在する。
ただ、ゲームプレイしながら聞くと間違いなく新しい版はv1.22の見栄えにマッチしてる。
多分、画面解像度が増えたから楽曲の解像度も上げないとニーア自慢の楽曲が負けちゃうんだろうな・・・
今作も間違いなく名曲ぞろいなので安心して楽曲買いしていいぞ。
ボイス
なんと、フルボイス化。
まぁ、正直「元々フルボイスじゃなかった?」という感想を抱く人もいるかもしれないが、実はPS3版はフルボイスじゃない。
フィールド上で話しかけたときの一部の台詞が「やぁ」とか「うん」とか一言のボイスで簡略化されていたのだ。
こういった過去PS3版でニーアやシロが全文言わなかったイベント中の台詞はもちろん、サブキャラ・モブキャラのセリフまでフルボイス化。
それどころか、本編中の台詞も過去のPS3版と違うので、全部撮り直してる。
誰がここまでやれといった?
デボルポポルのラスト近いシーンの演技はさらに磨きがかかってたので是非聞いてください。最高でした。
追加要素
公開されている追加要素も紹介しておこう。
v1.22ではPS3版に未収録だった「設定資料集収録のストーリーサイドの1つである”人魚姫”」が本編道中に追加されている。
と書くだけなら簡単なのだけど「本編道中」ってことはどういうことかわかるよね?
そう、2週目移行もあるんだよな。
誰が小説版を超えろといった。
大筋は設定資料集と同様であるものの、内容を知っていても確実に楽しめる演出になっている。
僕は知ってた上で感動しました。
知らない人はさらにさらに楽しめると思います。
詳しいストーリーは語らないので是非その目で確かめてほしい。
ちなみに、本編中ちょくちょく「アレ?こんなシーンあったっけ?」みたいなシーンも追加されている。
全く、油断も隙もありゃしないぞ!!
・・・
と、ここまで表面的な推しポイントを紹介した。
前座でさんざん御託を並べた本編の感想について以下に記載したいと思う・・・が、これからプレイするつもりの人はUターンすることを推奨する。
どうあがいても本質的な感想の中に今作のコアとなる部分が含まれてしまうからだ。
そして終わった後に見て欲しい。
「まぁ、SNSでネタバレ食らったし・・・」
「ネタバレ食らった上でまだプレイしたい」という人はこのまま読み続けて欲しい。
なるべく楽しみを奪わない様に頑張るので
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
改めてNieR:Replicant ver.1.22474487139..感想
ようやく本編。
ということで記載していく。
まず、最大にして最強のネタバレになってしまうが過去作をプレイした人はこの文章だけで「ピン」と来ると思う。
今作は過去作おなじみだった「セーブデータ削除」が存在しない。
いや、厳密には「結果として存在しない」だけで、その実構成としては存在するのだが、「結果として無い」のだ。
これは今作のクリエイティブディレクターであるヨコオ氏のやりそうな「逆張り」とも読めるし、「優しさ」にも読める。
表面的バッドエンドか表面的ハッピーエンドか
DoDシリーズやNieRシリーズは通して「悪意」のようなものが強かったと思っている。
DoDでは途方もない全武器レベル上げと要素コンプの果てにあるのは”崩壊”であったし、NieR:ReplicantではシナリオこそDoDほどの邪悪は無いものの自身の信じていた”正義”が2週目で瞬く間に覆される。
そして最後は人間性を試されるかのような選択肢と共にセーブデータが消されるのだ。
今思うとAutomateも決して悪意的な要素は無かった。
”セーブデータを消される”という要素はあるものの、それは対外的であり”誰かを救いたい”という正の感情だったと思う。
今作はベースが「レプリカント」であるため、セーブデータの削除が無くなった段階で何か癖のようなものが抜けてしまったような感覚に落ちいった。
いや、今作初見の人はこれでもまだ癖のあるゲームなのかもしれないが・・・
広い目で見ればシナリオは全く変わらないし、このストーリーも結局Automateの世界へ繋がる(人類は滅びる)のであるが主人公陣という小さい世界で見れば今作は堂々のハッピーエンドと言って差し支えないだろう。
なんとなく、このゲームが終わったときにシン・エヴァンゲリオンを思い出した。
NHKのプロフェッショナルで庵野監督は「言わないとわからない」というようなセリフを吐いていた。
結果シン・エヴァンゲリオンは作中で劇中用語がほぼほぼ解説され、展開やメタ要素の回収も非常に解りやすいものになっていたと思う。
見終わった後はさわやかな気持ちで、直感的に「ハッピーエンドだな」と思える作品だったと記憶している。
一方、20年前に作られた旧劇場版は直感的に「バッドエンドか」と思えるようなラストであった。
どうしてこんな話をしたかというとニーアシリーズとDoDシリーズも同様に「表面的バッドエンド」演出の中に隠れた幸せを咀嚼できる作品であったからだ。
例えば、この記事でも記載した、「鬱ゲー」としてよくやり玉に挙げられるDoDだが実はディレクターのヨコオ氏はこれらのEDを「バッドエンド」と意識して構築しているわけではない。
自覚的に「バッドエンドだ」と思って作ったのはドラゴン1のAルートだけで、それ以外は全部ハッピーエンドなので、ハッピーエンドが好まれる現代に向いてるに違いない。
— yokotaro (@yokotaro) January 18, 2020
ちなみに上記でヨコオ氏の言っている「DoDのAルート」とは、パートナーであり親友であるドラゴンのアンヘルを生贄として世界を延命させるエンドだ。
ヨコオ氏曰く「生贄にしているにもかかわらず世界の根本的な解決にはなっておらず先延ばしにしているだけ」というところでバッドエンドであるという。
確かにB~Eエンドは結果からして世界に”変化”が起こるのに対してAルートは唯々アンヘルを失うだけであるので、納得できる発言だ。
Eエンドは主人公の元居た世界を救うことには成功しているし、B~Dエンドもそれぞれキャラクターの思いは無駄になっていない。
ニーアレプリカントではどのEDでも人類は滅びるが、これは現実世界の価値観でのバッドエンドであって作中のキャラクターからすればハッピーエンドであったと言って差し支えないだろう。
ただ、表面的には「誰かを失って」「生き別れて」といった表現が入るためバッドエンドに見えてしまう。
自分はこの「表面的なバッドエンド」が大好きだった。
様々な解釈と作中のキャラクターの心情を読み取り、いかに自身の価値観が狭いかを自覚できる。
もちろん王道のハッピーエンドも好きなのであるが、ゲームでこういった表面的なバッドエンドをキレイに見せつけてくれる作品はそう多くない。
ニーアシリーズは表面的バッドエンドのオアシスだったと言えるだろう。
しかし、オートマタでは表面的な演出がハッピーエンドへと変化した。
「一度は失ったものが戻ってくる、もしかするとまた失うかもしれない、しかしそれでも前に進み続ける・・・」
ざっくり書くとこんなエンディングだったのだが、作中でも深くは語らず「この後の解釈はプレイヤーに委ねるぞ」と言わんばかりのエンドだった。
個人的には表面的にもハッピーエンドであったため強い衝撃があったことを覚えている。
「ニーアシリーズでハッピーエンドだと・・・?」
といった感じだ。
ただ、世間のレビューを見るとこのエンディングでも「セーブデータが消えるからバッドエンド」「セーブを消してまで見る内容じゃない」といった意見もあっため世界は広い。
さて、今作レプリカントVer1.22…は表面的ハッピーエンドで終結する。
というのもこれは10年前に発売された設定資料集に掲載されていた短編小説が映像化したものであるためだ。
当時は設定資料集を買った人だけが味わえる「IF」であった。
ニーアレプリカントのDエンドを見て「こうなればよかったのにな」という思いを公式が実現した公式二次創作のようなものだと思ってもらえばいい。
Ver1.22ではこれがゲームの中に収録されている。
つまるところ、このゲームの終着点は堂々ハッピーエンドとなるわけだ。
しかもセーブデータの削除も無い。
長くなったがようやくエヴァンゲリオンの流れに戻そう。
これがヨコオ氏の「お前らこれで満足か?」という挑戦的なものなのか
はたまた庵野監督的な「言わないとわからないみたいだから・・・」という諦めに似たやさしさなのか。
このゲームが終了した後、しばらく思いにふけってそう思ったのだった。
前者であれば次回作はきっと灰汁の強い作品が出てくるだろう。
後者であったら果たしてDoDから続くこのシリーズの1作として素直に楽しめるのか
はたまた、後者でもあってもヨコオ氏のディレクションで思いもよらない作品が誕生するのか・・・
個人的に作品はなんでもハッピーエンドにすればいいというものではないと思う。
ゲームは特に「プレイヤーがいる」ため映画やドラマと異なり”こんなに苦労したのに”という気持ちからよりハッピーエンドが望まれる思想はより強いだろう。
しかし、そんな中で自信の価値観を見直させてくれるような表面的バッドエンドの作品があってもいいと思うのだ。
もちろん、今作ニーアレプリカントVer1.22…が前作のVer1のような作品の美しさを失ったというわけではない。
むしろ演出や映像面も相まってより美しい世界が描かれている。
前作をやった人も、いやむしろプレイした人ほどVer1.22はプレイすることをお勧めしたい。
そして一緒に悶々としてほしい。
尚、ニーアシリーズは設定の「後だし」が存在する作品だ。
今作の表面的ハッピーエンドも次回作で容易に覆される可能性があるのは言うまでもない。
コメントを残す