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シン・仮面ライダーを見た感想。等身大のむずかしさ。

シン・仮面ライダー見てきたので感想。

今回はさっぱり目に

良くも悪くも「今まで通り」

SNSではいろいろ書かれているが、一つ安心していいのはいい意味でも、悪い意味でも今まで通り(シン・ゴジラ&シン・ウルトラマン)ということだ。
これは原作を限界までリスペクトしたうえで、これを現代の価値観や描画に置き換えて設定をアウトプットするというもの。
ゴジラも、ウルトラマンも、そして仮面ライダーもそこは同じ。
ファンは安心して映画館へ向かうべきだ。

また、しいて言うなら原作リスペクトの幅の広さは仮面ライダーが一番だと思った。
ロボット刑事Kに始まり、009やらなんやらで仮面ライダー以外の石ノ森章太郎作品のオマージュを取り入れている。
「知っているほどクスリ」とできる割合は今まで以上だと思う。

と、ここらへんの「庵野監督の原作リスペクト力」についてはおそらく他所で書いてもらっていると思うので、別の方向で話を進めたい。

まずは先に語った原作の再現。これらの本筋に風刺を取り入れるスタイルについてもおさらいしておく。
シンゴジラではゴジラという虚構に対して日本という国がどう戦うのかを仮定し、その生きざまを描く。
シン・ウルトラマンでは外星人であるウルトラマンとの友情、地球人の戦うさまと最終的にはウルトラマンは君だといわんばかりのオチに帰着していたように思える。

仮面ライダーも同様だ。
主人公である本郷猛は過去に辛い出来事があったものの、突如として仮面ライダーへ改造され、戦いの中でそれを乗り越えていく。
様々な人から思いを託され、最後は自分が次に託して去っていく。という「非常に簡単なストーリー」である。

こう見るとゴジラでは「国」、ウルトラマンでは「星」、そして仮面ライダーでは「個」にそれぞれフォーカスを与えて乗り越えるべき課題を描いているように見える。
この先があるのかはわからないが、3作ある中で最後に「個」を主張するとはなんかいいな、と感じた。

スケールの大きさの話

ただ、一方でこれがスケールの無さに繋がってしまっているようにも感じてしまうのも事実。
不思議と人はスケールの大きい話に拍手を送りがちだ。
解りやすい大きな障害を打破するほうがスケールとして描きやすい。
そういう意味ではゴジラもウルトラマンもスケールが大きくできた。

ひとつ、撮影についてもここで話しておきたい。
シンウルトラマンやゴジラは体格が大きい。
当たり前だがカメラは引きになり、構図はダイナミックになる。

一方で仮面ライダーは等身大のヒーローだ。
カメラは通常の画角に近く、スケール感は出ない。

今回見ていてものすごい苦労を感じた。
ウルトラマンがスペシウム光線を一発撃って山をぶっ飛ばせば、
ゴジラが内閣総辞職ビームを撃てば観客は「おー!」となる。
仮面ライダーにはそれがないのだ。

もちろんタダで転ばないのがこの作品のいい所。
近年のニチアサライダーでは肩身が狭いバイク、サイクロン号を巧みに使ったライドアクション。
これも実際に撮影されたものとCGを使ったものの使い分けでスピード感を変えている。
これは逆にスケールが大きい像では作りえない映像だと思った。
そして空中戦。
原作ではなかなかできなかった空中戦を用いることでスケール感の大きさを出していた。
戦闘シーンはいずれもかっこよく、手に汗握るカットであると思ったし、とどめのライダーキックは別段派手な演出がされるわけではないのに「これが必殺技」と分かる迫力を説得力が映像にあった。
よくあれほどの戦闘シーンを作ったなと素直に感動できた。

ただ、寄りのシーンではカメラを振り回すシーンが多く、アクションカムを使ったシーンは画質が悪くなるためこれに関して正直言うと「映画館で見る作品ではない」のかもしれないと同時に思った。
実はシン・ウルトラマンでもGoproを使っている。
シーンとしては執務室での面々を個人で映すシーンだ。
あの利用では演出的に理解できた映像も、今回は戦闘シーンやアクションシーン等メインどころで使われてしまっているためどうしても気になる。
映画館で見るときはIMAXなどは不要で、それよりも画面全体を視野に入れられる座席選びの方が重要だ。
画質に関してはストリームでいい気すらしてしまう。

スケールの話、もうひとつ

さて、映像の話をしたので次は脚本の方。
予め言いたいのは、これが原因でなんとなくこの作品の評価が低めに見られそうで悔しいということ。

先にも書いたが今回の仮面ライダーは「国」でも「星」でもない。
「人間個人の物語」だ。

今までの作品では群像劇を演出してきた「シン」シリーズ。
これに対して仮面ライダーではあえて群像劇を封印していたように感じた。
おそらく多くの人が今回消化不良を感じるのはこの群像劇が無かったからではないだろうか。
立花と滝という二人が出てくるものの、その背景の組織は描写されず、「一枚岩ではない」勢力がほんの少し映っただけ。
唯一政府組織が活躍するシーンも、サソリオーグの謎シーンで消化されたあたり本当に徹底している。
正直自分も滝がハチオーグを仕留めたとき、少しうれしくなってしまった。「やっときたか」って

だが、それもつかの間。
次の瞬間には再びカメラは常に本郷を追い続ける。

そのため、この物語はどうしても人一人分のスケールでことが進んでいかざるを得ない。
最後の決着もわかりやすい巨大災害を止めたわけでも、落ちてくる隕石を止めたわけでもない。
人一人を説得した」だけなのだ。

尚、個人的には、この決着のつけ方ははむしろ好きだし納得ができる。
我々一人ではゴジラに対抗できないし、ゼットンも倒せない。
けど、人一人の説得はもしかしたら現実でも可能かもしれない。
先の「個」の限界をしっかりと、この作品では矛盾なく結末に据えている。

誰かの思いを受け、それを果たしていく。
こうすることで何か一つの出来事が果たされる。
それを繰り返して人一人は辛いことを乗り越えていく。
もしかしたら、そこで線を一本足して、意外と幸せが近いことに気が付くのかもしれない。
そんな「あたりまえ」をこの作品は1時間強かけて語ってきたのだと思う。
意外と、みんな口では「そんなことわかっている」と現実を理解しながらも、それに納得していない。
それをあえて伝えてきた。そんな風に感じ取った。

この世の中に特効薬は存在しない。
ゴジラを倒す暫定内閣も、ベータカプセルも無いのだ。
であれば、我々一人一人ができることは、きっとウルトラマンより、ゴジラより、仮面ライダーのほうが近いはず・・・

しかし、世の中はそんな現実は見たくないのだろうな。
だって、特撮は空想なのだから。