こんにちは、闇の戦士 szkです。
パッチ5.0の感想はこちらの記事で記載しましたが、今後のストーリー考察はまだだったので行っていきたいと思います。
※2020/11/21 フレンドに感化されて追記した
この記事はFinalfantasyXIV(FF14)のパッチ5.0 漆黒のヴィランズにおけるネタバレを含みます。 ご注意下さい。 |
パッチ4.55のおさらい
ついに火ぶたが切られたガレマール帝国とエオルゼア東邦連合の戦。
アラミゴの東、中央洲との隣接地帯”ギリム・ト・ダーク”では硬直状態が続いていた。
一方で暁の面々は度々脳内に直接語り掛ける声を聴き、意識を失ってしまう。
カヌエによれば、肉体は生きているが魂ごと抜かれているという不思議な状況だった。
サンクレットを皮切りに、ヤ・シュトラ、ウリエンジェ、そしてアルフィノとアリゼーまでもが意識を失ってしまう。
そんな状況下で帝国ではかつて倒したはずの皇太子ゼノスが復活。
ギリム・ト・ダークで光の戦士は彼と再会したのであった。
切られる火蓋、光の戦士は再度ゼノスの姿をした人物と刃を交える。
そんな戦いの最中、またしても謎の声が光の戦士に語り掛ける。
戦いの最中でありながら光の戦士は気を失ってしまうのであった。
気が付くととこは何処とも思えぬ空間であった、「次元の狭間」と呼ばれるそこで光の戦士は自らを”水晶公(すいしょうこう)”と名乗る人物と邂逅する。
彼は「この戦いには勝っても負けてもならぬ」と言い、次に「クリスタルタワーの装置を使い第一世界に来てくれ」と語るのだった。
目が覚めると光の戦士はイシュガルドにいた。
どうやらゼノスの脅威はかつての盟友エスティニアンが払い、ヒエンとユウギリが命かながら光の戦士を救出したらしい。
光の戦士は時空の狭間で起きた話をタタルに伝える。
クリスタルタワーの調査が開始され、光の戦士は第一世界に旅立つ。
「勝っても負けてもいけない」その真意を知る為に。
パッチ5.0のストーリー
原初世界のクリスタルタワーの近くにあった謎の機械部品。
これを手にすると光の戦士は第一世界に渡ることができた。
原初世界とはどこか似つつも確実に異なる場所。
その世界は夜が無く、永遠に光に照らされた”無尽光”極まる世界だった。
名を「ノルヴランド」、大陸の形はエオルゼアとうり二つだがまったく異なる文化を発展させた第一世界。
この世界のほとんどは、光の氾濫によって無に帰してしまっていた。
そこで光の戦士は第一世界の歴史を知る。
第一世界では100年前に光の氾濫が起こり、この状態になってしまったこと。
「光の戦士達」と呼ばれる大罪人が光の氾濫を起こしたこと。
間一髪で現れた”ミンフィリア”と呼ばれる光の巫女がそれを食い止めノルヴランドだけ残った事。
第一世界が再び光の氾濫に飲み込まれることがあれば、原初世界で連鎖的に「第八霊災」が発生し、暁と光の戦士の命が絶たれること。
第一世界では、”罪喰い”と呼ばれる魔獣が現れ人々は戦い続けている事。
罪喰いの中でも特に強力な個体は「大罪喰い」と呼ばれ、ノルヴランドの各地を守護していること。大罪喰いを倒せばその地域の闇が取り戻せる事。
そして、
大罪喰いは光の戦士しか倒すことができないということ。
光の戦士は自らを呼び出した水晶公とアリゼー、アルフィノと共に各地を回り大罪喰いを討伐して回る。
その先々で暁の面々と合流することもできた。
しかし、罪喰いを倒せば倒すほど光の戦士の体内には光のエーテルが溢れ、いつかは自らが最強の罪喰いになりうる可能性も孕んでいた。
着実に大罪喰いを討伐する光の戦士の前に現れるのは原初世界から現れた「アシエン・エメトセルク」。
彼は光の氾濫を起こすことを裏から手引きしていたが、光の戦士の活躍によって「私たちの計画、全てパー」と発言する。
だが、その後彼は意外な行動を起こす、それは暁への協力だった。
彼は、一切暁の行動の邪魔はせず、必要な情報は提供すると唱え以後行動を共にすることとなる。
そして光の戦士の戦士はかつてこの世界を冒険した「大罪人:光の戦士達」の軌跡を辿りつつ自らを闇の戦士として大罪喰を討伐していく。
その中で水晶公を始めとするクリスタリウムの、強いてはノルヴランドの人々の思いを紡ぎ、世界に闇を取り戻していくのだった。
その中でエメトセルクはこの世界の「過去」を語っていく。
かつて原初世界と鏡像世界は1つだったこと。そして1つだった世界に人が暮らしていたこと。
エメトセルクはその1人であり、ある日唐突に来た”世界の終末”に抗った事。
その方法がゾディアークの召喚であり、ハイデリンはゾディアークを恐れたものが召喚を行い封じ込めたことと、その力こそが世界を分かつきっかけとなってしまったこと。
そして、アシエンは、エメトセルクはかつての友や家族を取り戻すべくアシエンとして1万2000年戦い続けている事。
その思想は原初世界の暁のものとも遜色無く、ただ純粋な救いを求めた結果であった。
そして、最後に残ったノルヴランド、コルシア地方の大罪喰。人間と罪喰のハーフ「ドン・ヴァウスリー」こと「イノセンス」を倒したとき光の戦士の体に異変が起こる。
光のエーテルが飽和し、まさしく罪喰いになろうとしていた。
そこに水晶公は光のエーテルを全てもらい受け別世界へ転移しようとする。これこそが彼の目的だった。
自らの命を絶ち、それを以てして第一世界と暁を救う。
その無法ともいえる行為の原動力は、かつて原初世界で憧れた英雄、光の戦士に対する思いそのものであった。
そして、そのフードから出るその顔たちは原初世界で共にクリスタルタワーと旅した「グラ・ハ・ティア」その者であった。
彼は100年の間、ひたすらに自身が眠っていた間世界に名を残し続けた英雄、光の戦士に憧れその人の為だけにこの計画を入念に練っていたのである。
今まで同行していたエメトセルクは光の戦士に「心底がっかりした、自我を失う前にすべてを終わらせたいならコルシア海の海底”テンペスト”へ来い」と言い残し、その場にいた水晶公を、強いては彼の持つ”実態を持ったまま時空転移する技術”を持ち去ってしまう。
光の戦士はテンペストへ向かう。そこにはエメトセルクによってかつての「分かたれる前の世界」が再現された都市「アーモロート」が存在していた。
アーモロートはエメトセルクの膨大なエーテルを用いて再現され、そこに暮らす人々も、建物もすべてが忠実に再現されていた。
それも、「終末の直前」の状態で。
あーもロートにて、光の戦士はエメトセルクと対立する。
同じ思想を持ちながらも得ようとするものが別で、どうしても相容れることのできあにエメトセルクと暁は対峙するほかなかった。
エメトセルクはアーモロートの「終末」を再現した「終末幻想アーモロート」を作り出し光の戦士へ最後の戦いを望む。
最終決戦の前に光の戦士は光のエーテルが飽和し体の崩壊を迎える。
しかし、それを救ったのは彼の第一世界の大罪人:「光の戦士達」のリーダー、アルバートだった。
「あと一歩進む力があったら、この世界を・・・すべての世界を、救えるか?」-
元々1つだった魂の2人は今ここに1つとなった。
本来「統合」をもってしてしか成しえない魂の融合。
光の戦士は真なる人に近づいた。一方エメトセルクの真名「ハーデス」となり決戦に臨む。
それはこの世界の「反逆者(ヴィランズ)」を決める戦いであった。
水晶公の異世界より呼びせし英雄の力も借り、光の戦士はハーデスに打ち勝つ。
ハーデスはその身の散り際にこう言い残した。
「ならば覚えていろ 私たちは確かに生きていたんだ」 と
その表情はどこか儚く、そして満足気であった。
かくして第一世界を救った光の戦士はクリスタリウムへ凱旋する。
「闇の戦士」の正体はひた隠しにしてきたはず、だが彼が者が闇の戦士であること誰一人として疑うものはいなかった。
クリスタリウムの子供は光の戦士に無邪気に声をかける。
「あなたが闇の戦士なの?」
そっち光の戦士は微笑み、物語「漆黒のヴィランズ」は幕を閉じる。
つづく
感想
感想はこちらの記事を読んでいただければよいのですが。とにかくよかった。
蒼天もかなり感動したのですが、今回の「世界を救った感」とそのためにエメトセルクという犠牲を払った物語の重みはすさまじい。
第一世界という新しい世界の冒険で全く新しいFFシリーズをプレイしたような気持ちにさせてくれるメインストーリーでした。
さて、以下より考察
考察
そもそも何が残ってるんだっけ?
上のストーリーのおさらいでは触れていませんでしたが、原初世界には問題が山積みです。
まずメインクエストの中でも語られていましたが「光の氾濫を抑えると原初世界の霊災を防げる」というのは根本原因の解決ではありません。
とはいうのも、世界のエーテルは「活(闇)」と「静(光)」に分けられそれぞれがバランスを取ろうとします。
このバランスは人の体という小さなくくりでもそうですし、世界という大きなくくりでも同じく作用するようです。
ちなみに、このバランスが取れなくなった状態が「妖異化(第13世界)」や「罪喰い化(第1世界)」ということでした。
13世界では光属性が無くなり、闇属性が活性化、世界から光がなくなったので体に闇属性が蓄積され光属性は取り込まれずにバランスが取れない。
その結果が妖異化、反対に光属性であふれると罪喰化してしまう。ということです。
では、世界から消えたエーテルはどこでバランスをとるのか。
それは原初世界と鏡像世界でバランスをとることになります。
つまり光の氾濫が発生し光属性にあふれた第一世界、そのバランスを取るべき闇属性は原初世界にて行われるわけです。
この「バランスを保つ」行為に対して同時に世界のエーテルを活性化させると世界はより強くバランスをとるために統合される。
このとき原初世界で発生する現象が「霊災」ということでした。
話を戻しますが、第一世界で光の氾濫を起こした場合原初世界では闇属性のエーテルがあふれることになります。(原初世界では霊属性と呼ばれる)
これにガレマール帝国が生み出したエーテル破壊兵器「黒薔薇」が作用を起こし威力が増大した結果、ストーリーで語られる第八零災が発生するということでした。
パッチ5.0のストーリーではこの「黒薔薇の威力を抑えた」ところまでとなります。
つまり「黒薔薇」という根本の破壊は済ませていない、規模は小さくなれどまだ脅威は去っていないということです。
その破壊とミッションを完遂するにあたる障壁が語られたシーンが、メインクエスト中のガイウスとエスティニアンのカットシーンであったと思います。
黒薔薇の破壊はしないといけない、しかしエオルゼア同盟軍は帝国の足止めが精いっぱい。
独立遊軍であるはずの暁は不在。
光の戦士もいない。
そんな中ゼノスは復活するわアシエンは帝国に肩入れするわでガイウスとエスティニアンの肩の荷が重くなっていくのが現在の状況。
パッチ5.1以降のストーリーの焦点はここになるのではないかなと思っています。
[blogcard url=”https://szkhaven.com/2020/02/13/ff14_p5_2_revue/”]
▲答え合わせ
原初世界での問題
光の戦士は唯一2つの世界を行き来することができる存在。
メインクエストの終わり方を見るに5.1のスタートは原初世界なのだと思われます。
黒薔薇をめぐるエスティニアンとガイウスのパーティ加入と来るパッチ6.0に向けた帝国の穏健派との協力が原初世界で行われると思います。
第一世界での冒険
そして第一世界の冒険もまだ終わっていないと思います。
第一世界は第一世界で「世界の問題」はある程度解決できたのですが、水晶公による召喚術式の解除。
それによる暁の原初世界の再召喚というマクロかつストーリー的には大きな問題が残っています。
シルクス・ツイニングはそこに対する情報の前出しだったように感じます。
ただメタ的な発想だとサンクレッドがエデンに絡んでる以上パッチ5.5まで暁の原初世界復帰は無いのでしょうね。。。
(あるいはサンクレッドが原初世界から離脱)
それぞれメンバーが第一世界の各地でやることを残しているのでパッチごとに少しづつ解決していくのだと思います。
なんなら、エメトセルクによって世界統合の仕組みを知っているので、逆に第一世界で闇属性を活性化させて原初世界の黒薔薇を無効化するといった技もやりだしそう。ないですかね?
ついでに言うと(考察の域を出ませんが)、こちらの記事で考察した通りクリスタルタワーほどのエネルギー体があれば次元の狭間すらエーテライト感覚で渡ってこれそうなので第一世界の人を原初世界に召喚するとかできそうですね。できないかな?
クリスタルタワーと光の戦士は並行世界のシドとネロによる「オメガの空間跳躍」と「アレキサンダーの時間跳躍」を「莫大なエネルギー」で達成した方法で第一世界に飛んできてる一方で暁はまず魂だけ召喚されているので、まずはそれを原初世界に戻すところからですかね。
第十三世界の謎
おそらくメインではなく、クロニクルクエストで解消することになるとは思うのですが第十三世界の謎も残ります。
エデン2層に出てきた彼の者や、ロールエクストラクエストのネタバレ→シルヴァも第十三世界の出身でしたし原初世界にはウヌクアルハイもいるので第十三世界に対するアクションもできるようになってきたように感じます。
原初世界で闇属性増やしたらヴォイド救えませんかね。
世界の大いなる謎、ハイデリン
そして大きな課題はこれ、ハイデリン。
おそらくしばらく影を潜めるんでしょうけどこれは今後どう動いてくるんですかね。
エメトセルクがいなくなってしまったから次の情報はエリディブスから出てくるのかな?
原初世界の惑星が「ハイデリン」呼ばわりされてるのも気になる。
FF14は蛮神で神様信仰の話を結構使っているので、それですかね。
(雑に説明すると「信仰」があれば力が上がるといった要素)
おわりに
なんとなく第一世界の冒険が終わったタイミングで達成感がすごくて「もうやること無いな」とか思ったりもしましたが、案外問題山積みといった感じでしたね。
しかし、漆黒のストーリーがよすぎたせいでこれからのストーリーが逆に不安だ…
2020/11 感想追記
感想について追記。
この記事を最初に書いてから今日までに
・5.3迄実装
・エメトセルクがFF人気投票で6位に
・FF15 4周年
などなどありましたが。んで、何度も紀行禄でムービーを見ましたがやはり何度見ても漆黒のヴィランズは良い。
フレンドの感想を読んでちょっと追記したくなったので追記です。
FF14”漆黒のヴィランズ”の感想をもう一度
これはこの記事でも改めて記載したい。
さて、先のFF人気投票でエメトセルクは6位になりました。
歴代のクッソ人気キャラの中でTOP10入りしてるエメトセルクは凄まじく、彼のキャラクターがいかに魅力的であったかが伺えます。
この時同じ「ヴィラン」枠で比較対象と上がるのがFF15のアーデン。
アーデンとエメトセルク
FF15をプレイしていない人に超絶ネタバレがてら説明すると「FF15というゲームは基本的にアーデンの物語」だったりします。
プレイヤーはそれをノクティスというキャラクターを通して第三者的に俯瞰する形になる。
「アーデン物語」をノクティスというレンズを通してみるので物語として、腑に落ちない点もあったと思います。
一方RPという部分は仲間とのキャンプや冒険体験で保管している。
FF15はそういうゲームである種究極のリアリズムであったと思います。
生き抜くために「やらないといけないこと」、そしてその中でより人生を充実させるべく「やりたいこと」。
FF15はこれが良くかけていた。夢がない言い方をするとノクティスはサラリーマンです。
「やらないといけないこと」として自分の身を削って世界を救わなければいけない、一方でその未来が見えてるから仲間との時間が尊かった。これはFF15がプレイヤーに与えるのがタダの物語をなぞるだけでなく「体験」として覚えててもらえる。良いゲームだったと思います。
っと、思わずFF15の良さについて熱く語ってしまいました、話を戻すとFF15は物語としてはあくまで「アーデンの敷いたレール」を走る物語だったわけです。その実ノクティスに主体性はあるように見えてない。
アーデンは自身にとって「都合のいい物語」を2ルート用意していました。
詳細に書くとネタバレも過ぎるので、あっさりと書きますが
・自身が勝ち、自身は復讐を果たせる。世界を支配した状態で世界が終焉する
・自身が負けるが、自身は呪いを解かれ開放される。世界は最終的に終焉する
といった感じ。その実ストーリーとしてアーデンは買っても負けても自分が都合のいいエンドに持っていけるようになっていました。
ノクティス操るプレイヤーはこの構図が見えていたからどうしても掌の上で転がされていた感覚を覚えます。
では、「漆黒のヴィランズはエメトセルクの掌の上の物語だったのか」というのがここで話したいこと。
僕は漆黒のヴィランズは決してエメトセルクの掌の上ではなかったと思ってます。
この記事でも書きましたが、エメトセルクも自分にとって2通りの「都合のいいルート」を用意していました。
・主人公と戦って勝てば今まで通り真なる世界を取り戻す計画を進める。
・負けた場合は、その意思を「彼の魂を持つ」主人公に託す。
そして、これらのルートに対してプレイヤーが双方納得できるストーリーが形成されてました。
これは新生のエオルゼアから始まり、蒼天、紅蓮と続く「長い物語」だからこそできた構成。
主人公であるプレイヤー、”光の戦士”は新生から漆黒までお使い、使いっ走り、そして裏切りと手のひら返し。
まさしく、物語の中で激動を生き抜き、メインクエスト”漆黒のヴィランズ”の最後あの場になっているわけです。
一方でエメトセルクサイドも”主人公が知りうる時代”はもちろん、そのはるか昔からずっと戦ってきていた。
さて、上で記載した「2つのルート」ですが、3つ目のルートは用意されることが無かった。
それは「エメトセルクと手を取り合う」ルート。
おそらく多くのプレイヤーが臨んだであろうこのルートはエメトセルクも用意しなかった。
以下は作中でのエメトセルクの心理考察になりますが、漆黒秘話とそして5.3プレイ後に改めて”漆黒のヴィランズ”カットシーンを見るとエメトセルクとしてはやはり自身の旧知の中である「彼」が「なりそこない」となってしまった以上、それと手を取り合うことはできなかったのだろうと思います。
なので、「自身が殺されるか」「彼を怪物として飼いならすか」2択しか用意しなかった。
あくまで、”なりそこないと対面したときの2択”だったわけです。
なので、あの時エメトセルクの目の前に立っていたのが14世界分のすべての魂を得た”彼”。
つまるところアゼムであったら3つ目のルートも出てきたのかなと思います。
きっとアゼムはエメトセルクとも、光の戦士や暁とも違う意見を出せたのだと思いますし。
と、考察すべきは「エメトセルクの手の平の上ではなかった」ということですよね。
その考察をする前に少し余談をば。
”テンペスト”
シェイクスピアの作品で「テンペスト」という作品があります。
和名では「あらし」、あるいは「大嵐」という劇作品です。
この作品の大筋は大体こんな感じ。
ナポリ王アロンゾー、とミラノ大公アントーニオらは船上にて大嵐にあい難破。 結果一行は絶海の孤島に漂着するところから物語は始まる。 その島には12年前にアントーニオにより追放された兄プロスペローとその娘ミランダが魔法と学問を研究しながら暮らしていた。 アロンゾ―と離れ離れになってしまったアロンゾ―の息子であるナポリ王子ファーディナンドは、プロスペローの思惑どおりミランダと出会い、2人はで恋に落ちる。 一方、アントーニオは自身のさらなる出世のためナポリ王の弟を唆してアロンゾ―殺害を計画。 プロスペローは仇敵を次々と懲らしめていく。 魔法の力を捨てエアリエルを自由の身にしたプロスペローは最後に観客に語りかける。「自分を島にとどめるのもナポリに帰すのも観客の気持ち次第。どうか拍手によっていましめを解き、自由にしてくれ」と |
これが「漆黒のヴィランズと何が関係があるんだよ!」と思うかもしれませんが、どうしてもノルヴランドのラストリージョンである「テンペスト」。
そしてそれを取り巻くキャラクターの群像が上記作品と被ってしまうためここに記しておきます。
さて、テンペストの主人公は「プロスペロー」です。
彼の復讐から物語は始まり、道中彼は自身の意見を変え、最後は”和解”によって物語は幕を閉じます。
プロスペローはさもしい感情によって行われた自身の追放をアントーニオを赦すことによって和解が成立します。
そしてラストには、プロスペロー自身が彼がアントーニオを赦したように彼自身の行いと罪の赦しを観客によって委ねる。
この時の台詞が「自由にしてくれ」なのだと思っています。(あくまで個人の感想ですが…)
観客はまた自分の復讐心に気が付き、他人にその赦しを請い、その連鎖が行われることで世界が少しでも良くなれば…という作品だと私自身はテンペストを解釈しています。
さて、FF14に戻ります。
この構図におけるプロスペローがエメトセルクと重なって仕方がないのですよね。
決して、復讐心ではないのかもしれませんが、エメトセルクも途中で和解を求めようとし双方理解を深めた。
また、エメトセルクが舞台好きであったことは紅蓮編のリターン・トゥ・イヴァリースで語られています。
FF14世界にシェイクスピアはいないですし、このリージョンネームが本当にこれを意識したかもわかりませんが、脳裏に”ちらつく”要素が多く、こうして記載させてもらいました。
プレイヤーは”当事者”か
某フレンドの感想を読んで、ようやく言語化ができたので記載させてもらいます。
そして、そろそろアーデン物語ことFF15との比較の話にも戻さねば・・・
先の”テンペスト”の最後の下り「どうか拍手によっていましめを解き、自由にしてくれ」ですが、プロスペローは最後物語の結を観客に委ねるわけです。
FF14とFF15の大きな差はここにあると今回改めて確信しました。
上で記載した通り、FF14においては新生編から始まり漆黒のヴィランズまでの積み重ねがある。
この”積み重ね”というのは一言で言ってしまうと安いですが、プレイヤーの体験に当たります。
プレイヤーを守るために散っていった多くの仲間と犠牲。
守れたものと守れなかったもの、むしろプレイヤーを守ってくれる人。
プレイヤーを利用する者や、協力してくれる人たち。それを取り巻く人々。
それぞれ”クエスト”という形ではあり、プレイヤーによってその量も強度も異なりますが、そこにインターネットゲームの、それもMMORPGとして”体験”があるからこそ光の戦士であるプレイヤーはエメトセルクと戦わねばならない。
あくまでも主人公は”プレイヤー”なのです。代弁してくれるアルフィノはじめ暁メンバーはいますが、結局「戦う」という行為によって結を”選択”するのはプレイヤー。
これは先に記載したシェイクスピアのラストシーンで「拍手するかしないか」というところにも通じると思います。
結局のところ、物語である以上は先に進めるために拍手せざるを得ない。
「拍手しない=プレイしない」という選択はできないんですよね。
尚本来、エメトセルクすら「守りたい」対象になりえるのですがそこを拒絶するのがエメトセルクのキャラクターとしての魅力にもなっているのではないかなと思いました。
結局のところ彼も、形を変えて光の戦士に関わってくるわけですが、これは5.3ストーリーの感想を見てもらえればと。
▲メインクエスト”漆黒のヴィランズ”でのアルフィノの一言、この後に「だからこそ我々は引くことができない」と続きます。
一方FF15では、プレイヤーが”拍手”を行うタイミングが無かった。
これは良い悪いという話ではなく、そういうストーリープロットの物語というだけです。
FF7もFF10も、過去のFFはみんなそうだった。むしろ変化球はFF14だと言えます。
そろそろ話をまとめましょうか。
FF14はエメトセルクに拍手を送るゲームだったと思います。
FF14はMMORPGです。
MMORPGの主人公はプレイヤーであります。
正し、MMORPGにもストーリーがある。
その物語を自ら築き上げたエメトセルクも彼の劇中での主人公でした。
決してノクティス王子=プレイヤーではない。あくまでノクティスはノクティスなんです。
彼のキャラクターがあるし、彼の仲間がいる。
あくまでプレイヤーはそのレンズを通して物語を俯瞰しているのみでしかありません。
一方FF14は光の戦士=プレイヤーであり、プレイヤーは”物語の当事者”です。
FF14のストーリーはこれを新生~紅蓮と積み上げて、プレイヤーを1人の物語の当事者に仕立て上げるのが非常にうまかった。
なので、漆黒のヴィランズのラストではプレイヤーとしてエメトセルクに対して拍手を送ることができたのだと思います。
”主人公”は英訳すると「HERO」であり、英雄もまた「HERO」です。
その反語は「ヴィラン=悪党(Villain)」であり、「Villains-ヴィランズ―」というのはその複数形であります。
この物語はプレイヤーである光の戦士という悪党と、物語の主役であるエメトセルクという悪党2人の「ヴィランズ」の戦いによって描かれた物語だったと言えるでしょう。
続きはこちらです
[blogcard url=”http://szkhaven.com/2020/02/13/ff14_p5_2_revue/”]
ニーア(24人レイド)関係の考察はこちら
[blogcard url=”http://szkhaven.com/2019/10/30/ff14_nier_5_1/”]
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